LOGIN小春の実家を出ると、空はすっかり暗くなっていた。 門の前で、怜が足を止める。 数歩後ろには、伊織。 母の前では、最後まで礼儀正しくしていた二人だった。 けれど。 玄関が閉まった途端。「……俺なら優しくする、だったか」 怜が、振り返った。 伊織は、眉を寄せる。「まだ、その話をするんですか」「気になっただけだ」「あなたこそ、十五年も——」「俺は、間違えた」 伊織の言葉が、止まった。 怜は、自分でも驚くほど静かな声で続けた。「来なくていいって言った。あいつが傷ついたのも、見てた」 言葉にすると。 思っていたより、ひどかった。「でも、また来ると思ってた」 そうだ。 腹を立てても。 少し泣いても。 最後には、小春の方から話しかけてくる。 それまで、待っていればいい。 ……そんなことを、考えていた。 伊織は、視線を逸らした。「……先輩は」 しばらくして、口を開く。「俺にも、笑ってました」 怜は、黙って聞いた。「からかうと、怒って。それでも次の日には、普通に話しかけてくれて」 街灯の下で、伊織の指が握られる。「だから、嫌われてないと思っていました」「……そうか」「会社のことも。先輩なら、説明すればわかってくれるって」「説明したのか」 伊織は、答えなかった。 その沈黙だけで、十分だった。 怜が、短く息を吐く。「似たようなもんだな」「一緒にしないでください」「俺も、されたくない」 即答だった。 二人は、しばらく無言で睨み合った。 反省している。 後悔も、している。 だからといって。 目の前の男と、仲良くできるわけではなかった。「……あなたは、先輩に何を言うつもりですか」 伊織が尋ねる。「お前に教える必要はない」「でしょうね」「お前は?」「教える必要、あります?」「ないな」 また、沈黙。 ……驚くほど。 会話が、噛み合わない。 ただ、一つだけ。 同じことを考えていた。 小春に、会いたい。 今度こそ、ちゃんと話したい。 そして。 この男より先に。「……連絡が来ても、抜け駆けしないでくださいね」 伊織が言った。 怜は、露骨に嫌そうな顔をした。「何で、お前の許可が要る」「要りませんけど」「なら、聞くな」「……ほんと、感じ悪いですね」「お互い様だろ」
テーブルに並べられたのは、怜の持ってきた焼き菓子だった。「あら、これ。小春が好きなお店のじゃない」 母が、紙袋を覗いて笑う。「よく覚えてたわね、怜くん」「……昔から、好きだったので」「そうそう。あなたと半分ずつ食べるって、よく買ってきてたわ」 怜は、目を伏せた。 小春は、いつも自分に大きい方を渡していた。『怜くん、甘いの好きでしょ』 そう言って。 自分だって、好きなくせに。 伊織が、焼き菓子を一つ見つめる。「……これ、俺もいただいたことがあります」「あら、会社に持っていってたの?」「はい。残業していたときに」 怜が顔を上げた。 伊織は、その視線に気づいた上で続ける。「俺の分だけ、別に取っておいてくれていました」「小春らしいわねえ」「……ええ」 伊織の声が、少し柔らかくなった。『伊織くん、夕飯まだでしょ』 机の端に置かれた、小さな包み。『甘いの食べて、ちょっと休憩しなよ』 あのとき、自分は何と言っただろう。『先輩、俺を甘やかすの好きですね』 そんなふうに、からかった。 嬉しかったくせに。 それを、そのまま伝えるのは癪だった。「……でも最近、元気がなかったから」 母が、ぽつりと言う。 二人が、同時に顔を向けた。「元気が?」「ええ。電話しても、仕事の話をあまりしなくなって」 伊織の肩が、わずかに固まる。「怜くんの話もしなくなったし」 今度は、怜が動かなくなった。「前はね、何かあると話してくれたのよ。怜くんが忙しそうだから何か作ってあげようかな、とか。後輩の子がよく気づいてくれるんだ、とか」 母は、二人の顔を見た。「あなたのことだったのね、伊織くん」「……たぶん」「嬉しそうだったわよ」 伊織は、唇を引き結んだ。 怜は、それを見逃さなかった。 けれど、何も言えなかった。 自分も、今。 同じような顔をしている気がしたから。「だから、心配だったの。でも——」 母の表情が、ふっと明るくなる。「さっき電話したら、すごく楽しそうだった」 怜の喉が、小さく動く。「……さっき?」「うん。海が綺麗で、パンケーキが美味しいんですって」 伊織は、ゆっくり息を吐いた。「……そうですか」「明日も予定があるみたい。久しぶりに、あんなに弾んだ声を聞いたわ」 よかった。 無事だった。 元
「ちょっと待っててね。お菓子も出すから」 小春の母が、キッチンへ消えた。 食器の触れ合う音。 湯の沸く音。 そして、リビングには。 初対面の男が、二人。「……お前も、小春を探してるのか」 先に口を開いたのは、怜だった。 伊織はティーカップを置く。「ええ。何か問題でも?」「実家まで来るほどの用か」「それは、こちらの台詞では?」 にこり。 伊織の笑みは、崩れない。「幼馴染の方なら、居場所くらいご存じなのかと思いました」「……知ってたら、ここには来てない」「ですよね」 わざわざ、確認するように頷く。 怜は目を細めた。「会社の後輩ごときが首を突っ込むな」 伊織は、小さく笑った。「先輩と同じ会社にいた人間ですよ。最近のことなら、あなたより知っているかもしれません」「……何が言いたい」「別に」 少しだけ、身を乗り出す。「ただ、幼馴染ってだけで、そんなに偉いんですか?」 沈黙。 怜の指が、膝の上で止まった。「……お前」「十五年も一緒にいたんですよね」 伊織は、首を傾げた。「その間、先輩に何か言ってあげたんですか?」「何か、って」「好きだとか。大事だとか」 その言葉に。 怜は、すぐに答えられなかった。 伊織の笑みが、少し薄くなる。「……言ってないんですね」「お前に話すことじゃない」「そうですか」 伊織は、頬杖をついた。「俺なら、あんなに一生懸命好かれたら、もう少し優しくしますけど」 がたり。 椅子が、わずかに鳴った。「……喧嘩、売ってるのか」「まさか」 伊織は、怜をまっすぐに見た。「先輩が、可哀想だなと思っただけです」 怜の脳裏に、最後に見た小春の顔が浮かぶ。 会社まで、忘れ物を届けに来た日。 小さな紙袋を胸に抱えて。 周囲に気を遣って、廊下の端に立っていた。 あのとき、自分は。『……会社まで来なくていい』 そう言った。 小春は笑おうとしていた。 けれど、うまく笑えていなかった。 ……それでも。 怜は、何も言い直さなかった。「……お前は」 低い声で、怜が言う。「そんなに偉そうに言うなら、あいつが会社を辞めたとき、お前は何をした?」 今度は、伊織が黙った。伊織の指先が、カップの取っ手に触れた。持ち上げはしなかった。「……事情は、聞いてるんですか」「全部じゃ
一方、その頃。 都内某所。 小春の実家の玄関先で、九条怜は三度目のインターホンを押すかどうか迷っていた。 右手には、紙袋。 中身は、小春の好きな焼き菓子だった。 いつもなら、こんなものを持ってくる必要はない。 十五年も付き合いのある家だ。 手ぶらで来て、勝手に小春の部屋を覗いて、そこにいる本人に「何しに来たの」と笑われる。 それが、当たり前だった。 ……つい、この間までは。「……何やってんだ、俺」 小さく呟いた、そのとき。 がちゃり。「あら、怜くん!」 扉を開けた小春の母が、驚いた顔で彼を見上げた。「どうしたの? こんな時間に」「……小春、帰ってきてませんか」「あの子、まだ旅行中よ」「……そうですか」 わかっていた。 わかっていたのに。 もし帰っていたら。 もし、いつもの顔で玄関に出てきたら。 そんな期待を、どこかで捨てきれなかった。「連絡、つかないの?」「……ええ」「怜くんとも?」 怜は眉を寄せた。「……とも?」「あ、ううん。とりあえず入って。今、お茶を淹れたところだから」「いえ、今日は——」「ちょうど、小春の会社の方もいらしてるの」 怜の足が、止まった。 会社の方。 あの子が辞めた、会社の。「……誰ですか」「伊織くんっていう、後輩の子」 母は、何の警戒もなく微笑んだ。「とても感じのいい子よ。小春を心配して来てくれたの」 ……感じのいい、後輩。 怜は黙って靴を脱いだ。 さっきまで断ろうとしていたお茶を、今度は断る気になれなかった。 リビングの扉が開く。 ソファに座っていた青年が、こちらを向いた。 白いシャツ。 長い指に挟まれたティーカップ。 整った顔に、柔らかな微笑み。「あ、どうも」 青年は、すぐに立ち上がった。「突然お邪魔して、すみません」「こちら、小春の幼馴染の怜くん」 母が紹介すると、青年の笑みがわずかに変わった。「……へえ」 ほんの一瞬。 値踏みするような視線が、怜の顔をなぞる。「あなたが、怜さんですか」 怜は紙袋を握り直した。「……俺のこと、知ってるのか」「ええ。先輩から、少し」 伊織は、にこりと笑った。「よく、お世話をしている方だって」 ……ぴくり。 怜の眉が動いた。 それは、間違っていなかった。 間違っていないからこそ。
『ええと、確か……朝比奈さん?』 「…………」 私は、ゆっくりと天を仰いだ。 ……ああ。 終わった。 よりにもよって。 よりにもよって、あの男。 (……ヒナタくん!?) 大阪のホスト。 十か月間、私が通い続けた男の子。 世界で一番顔が好みで。 世界で一番不器用で。 そして、世界で一番私を振り回した男。 あの、ヒナタくんである。 『なんだか、ものすごく必死だったのよ』 「……え?」 『泣きながら、あなたに会えないかって』 「…………」 ……泣いてた? ヒナタくんが? あの、いつも偉そうで、口が悪くて、素直じゃない男の子が? 『とにかく、一度だけ話がしたいって何度も言ってたわ』 「…………」 胸の奥が、一瞬だけちくりと痛んだ。 ……そうなんだ。 私がいなくなって、そんなに取り乱してるんだ。 あんなに愛情表現が苦手だったのに。 あんなに私を突き放していたのに。 ……でも。 (……いや、待って) ちょっと待ってほしい。 感傷に浸っている場合ではない。 「お母さん、なんでヒナタくんが実家のこと知ってるの!?」 『え? あなたが教えたんじゃないの?』 「…………」 ……あ。 そういえば。 以前、地元の話をしたとき。 『うちの実家、この辺りなんだよね〜』 なんて、何気なく話した記憶がある。 ……あるけど! (……いや、場所までは教えてないんですけど!?) まさか。 まさかとは思うけれど。 あの子。 その情報だけで、探し回ったってこと? (……え、こわっ!) いや、好きだったけど! すっごく好きだったけど! だからって、さすがに行動力がありすぎません!? 東京まで会いに行くとは口で言っていたけど、今まで自分から会いに来てくれたことなんて、一度もなかったじゃん! なんで今になって、そんなに行動力を発揮してるの!? 『それでね、あまりにも必死だったから、お母さんも可哀想になっちゃって』 「…………」 ……ん? 『あなたの電話番号、教えておいたわ』 「…………」 ……え。 「……お母さん?」 『なに?』 「……今、なんて?」 『だから、電話番号を教
南の島の、小さなカフェ。「ん〜〜〜っ! 幸せすぎる〜〜っ!」私は目の前に並んだパンケーキを見て、思わず頬を緩めた。青い空。透き通ったエメラルドグリーンの海。心地よい潮風。そして、たっぷりの生クリームに、色とりどりのフルーツが添えられた、ふわっふわのパンケーキ。……最高。控えめに言って、人生最高である。「んん〜っ! 美味しいっ!」一口食べるだけで、幸せが全身に広がっていく。ああ、私、こういう時間が大好きだったんだ。可愛いカフェを巡ったり。おしゃれを楽しんだり。美味しいものを食べたり。綺麗な景色を眺めたり。……なのに。「……私、今まで何してたんだろ」ぽつりと呟いた。思い返せば、ここ数年。私の頭の中は、いつだって男の人のことでいっぱいだった。(今日は連絡くれるかな?)(私のこと、好きなのかな?)(どうして冷たいんだろう?)(もっと頑張ったら、好きになってもらえるかな?)……ああ、もう!考えているだけで疲れてくる。特に私は、一度好きになったらとことん尽くしてしまうタイプだ。相手が忙しいと言えば予定を合わせるし、疲れていると言えば励ますし、落ち込んでいたら放っておけない。なんなら、相手が幸せそうにしているだけで自分まで幸せになる。それ自体は悪いことじゃないと思う。人を愛することは、私にとって何よりも楽しいことだから。……ただし。(なんで私ばっかり頑張ってたんだろ?)問題は、そこなのだ。私は恋人が欲しかったのであって、誰かのお母さんになりたかったわけではない。ましてや、無償で働く専属カウンセラーでもなければ、都合のいい支援者でもない。好きな人を幸せにするのは楽しい。でも。私だって、誰かに幸せにしてもらいたかった。「……うん。もう、いいや!」私は大きく伸びをした。過去の恋愛に後悔はない。あれだけ全力で恋をして、泣いて、笑って、悩んで。普通なら経験できないようなことも、たくさん経験した。おかげで可愛くなったし、仕事も頑張れたし、以前よりずっと自信がついた。だからこそ、もう十分なのだ。(これからは、自分のために生きようっと!)可愛い服を着て。美味しいものを食べて。好きな仕事をして。行きたい場所に行って。そして、いつか素敵な人に出会ったら、今度こそお互いに大切にし合える恋がしたい。







